のぶろぐ | スペインで野球ときどきベースボール

サッカーの国スペインのバレンシアで野球をしながらスペインの日常を記す冒険の書(2020年3月に日本に帰国)

僕は世界を変えることができない。

「世界全体が幸福にならない限り、個人の幸福はあり得ない」

皆さんも一度は聞いたことがあるフレーズだと思います。

 

自分が通っていた高校でかつて教鞭をとっていた宮沢賢治が残した言葉です。

このフレーズについて皆さんはどう思いますか?

 

この言葉は自分が青年海外協力隊に応募するきっかけの一つになった言葉です。

日本から、ましてや岩手からもほとんど出たことがなかった自分が青年海外協力隊として国際協力に関わりたいと思えたのもこのフレーズに少なからず影響されたからだと思います。

青年海外協力隊の応募面接でも胸を張って「このフレーズを実現できるよう活動したいです!」と答えたのを覚えています。

 

本気で「世界を平和にしたい」って思っていました。

 

「自分の幸せよりもまずは誰かのために尽くそう!」 

それを心に決めてエルサルバドルへ派遣されました。

 

しかしそのワクワクする気持ちとは裏腹に待ち受けていた現実。

言葉が全然分からない。

言葉が話せない。

野球の技術不足。

そして何より、国際協力・支援に関する能力や知識、経験の足りなさ。

 

何もできない...

 

派遣後わずか3カ月で、身動きが取れないくらい苦しくなっていました。

 

「指導なんかしなくていいから、お金だけくれ」

「俺たちはドミニカ共和国プエルトリコからコーチを呼んでるから、アジア人からは何も教わることはないよ!」

「俺はお前が来てほしいなんて言ってない。上司が勝手に頼んで俺に押し付けたから俺の仕事が増えちゃったんだぞ!」

「前にいた日本人のほうがよかった!」

 

などなど差別的な言葉や冷たい言葉を言われることもあった。

 

国や文化が違うから最初からうまくいくはずない。

ゆっくりゆっくりお互い理解しあえる関係を築いていこう。

自分自身にそう言い聞かしても、前任と比較される声や、他の日本人ボランティアの活躍などがどうしても周りから聞こえてくるから焦らずにいられませんでした。

そして焦れば焦るほど、自分のやりたいことと現地の求めていることのすれ違いがどんどん大きくなっていきました。

 

実際、自分の配属先ではすでにしっかりとした自分たちのシステムを持ちリーグ戦や指導が行われていたため、助けを必要としていない人も多かったと思います。

 

JICAのボランティア事業はお金や物資の支援より「技術支援」を大きな目的にしています。

それは現地の人にボランティアの持つ「技術」を伝えることで、ボランティアが帰国し、その地にいなくなっても現地の人たちの自助努力によってボランティアの残した技術を伝えていく循環を作ることを大切にしているからです。

しかし本来のとは異なる目的で現地の機関がボランティアを申請することもあります。

もちろん技術支援を本気で求めている機関がほとんどで、ボランティアが伝える技術と配属機関がうまく合えば、何年何十年と残る技術支援になる場合も多いです。

 

自分の場合は現地の機関やJICA、大使館など様々な人や機関が絡み合った要請だったため、当時の自分のもつ技術や能力ではその要請に応えられないことがほとんどでした。

 

「誰も自分のことなんか必要としてないじゃん...」

「こんな状況なら、任期を短縮して帰国したほうが良いんじゃないか...」

「自分が来たことでより状況が悪くなってしまってるんじゃないか...」

毎日思った。

派遣前に中学時代にお世話になった野球部の監督が自分に、

「ノブ、お前が2年間何もできなくても、もし諦めて途中で帰ってきたとしても、俺たちは誰も何にも文句言わないから!だから精一杯やってこい!」

と言ってくれたことをよく思い出していた。

 

そして本当にもう限界だ...って思った時にいつも助けてくれたのが、活動先の野球場などがあるスポーツ施設の手伝いをしているおばあちゃんとおじいちゃんだった。

永遠に続く愚痴を嫌な顔しないで聞いてくれたり、会う度に「のぶ~会いたかったわ~!今日は元気なの?」とか「のぶ!ジュース飲むか?」とか本当に優しくしてもらった。

 

自分自身が「外国人」になることで、名前を呼んでくれる人がいること、話を聞いてくれる人がいること、本当にありがたく感じた。まだこの国にいていいんだって気がした。

 

当時の現地のJICAの担当者にも本当に何回も助けられた。

自分を本当に必要としてくれる場所を本気で探してくれたし、いろんなものと戦ってくれた。

その人がいなかったら絶対に2年間活動できなかったと思う。

 

身動きがとれないくらい苦しくて、自分の力のなさを痛感している時、そんなときに助けてくれたり、話を聞いてくれる人たち。

そして「野球やろ~!!!」って子ども達が走って駆け寄って来るとき。

その時に「あ~自分はこの人たちのために、活動していこう」「自分のことを必要としてくれる人のために何がでいるんだろうか」って思うようになった。

それと同時に自分の中で自分自身に諦めができた時だったって感じる。

不思議なもので、いろんなことを諦めたり妥協してから活動がうまく回り始めたりもした。

自分の場合はそれでうまく肩の力が抜けて、いい意味で現地の人と同じ目線になることができたってことなんだと思う。

 

それまでは「せっかく日本から来てあげているのに...」とか「みんなのためなのになんで自分の話を聞いてくれないんだ」って心のどこかで思ってしまっていた部分もあった。そのせいでどこか上から目線になって現地の人はそれを感じていたんじゃないだろうか。

 

今、当時のことを振り返ると、もっと現地のことを理解しながら活動していれば良かったなって思う。

現地の人がどんな暮らしをして、どういうことに困ってて、どんな支援が必要で、その中で自分がどんなことができるか。などなど小さいことを一つひとつ時間をかけてやっていくべきだった。

派遣前に協力隊として活動した人の本をたくさん読んだり、派遣前の講習で耳にタコができるくらい聞いたりして分かっていたはずだったんだけど、実際はすごく難しいことだった。

もしもう一回やるとしても上手くできるか分からない。

でも実際にこのことを経験して理解できたことは2年間で得たものの一つ。

 

自分に何もできないことを実際に肌で感じて、何ができるかを考えると「感謝をしながら生きる」ことだと今は思う。

日本から遠く離れた国で「外国人」になることで、無力な自分に気付けたし、周りの人がいるおかげで現地で生きていくことができるって分かった。

これはインターネットや本で調べただけではできない良い経験だったと思う。

 

青年海外協力隊として派遣された2年間は本当に絶妙な期間だった。

1年間じゃ短いし3年間じゃ長すぎる。

1年目に現実を知ってめっちゃ落ち込む。

落ち込みすぎてそれ以上落ち込めなくなった2年目にやっと光が見えだして、任期終了間際に活動の成果が出始める。

だからこそ2年間の最後に「この国に来てくれて本当にありがとう」って言われた時は全部が報われた気がして嬉しかった。

 

1人の人に理解してもらうのがこんなにも難しい。

1人の人に動いてもらうのがこんなにも難しい。

自分なんかに世界を変えることなんてできない。

そう痛感した2年間。

 

 

でもその経験ができたからこそ、

自分を必要としてくれるところで、自分ができることを感謝を忘れずに過ごすことの大切さを理解できたと思う。

そして自分の中で諦めることを許せるようになったことで、「まず自分が幸せを感じることで周りの人を喜ばせることができる」って思える部分もでてきたように感じる。

 

その上で今の自分は、

「個人個人がそれぞれの幸福を感じることで、世界全体への幸福に近づいていく」

そう思います。

 

身近な人たちや大事な人たちを大切にして、お互いを尊重しあい、助け合うことで、それがやがて世界全体の幸せや平和につながっていくのではないかと感じます。

自分自身が余裕なくていっぱいいっぱいだと他人に優しくできないしね。

 

なので今年の七夕は情熱の国のスペインから、、、

 

「自分が世界を変えるのではなく、自分と関わる人がどんな小さいきっかけでもいいでもいい。自分と関わることで物事を今より少しでも良い方向に変えていけますように。」

 

 

 

だから僕は世界を変えることができない。

 

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