のぶろぐ | スペインで野球ときどきベースボール

サッカーの国スペインのバレンシアで野球をしながらスペインの日常を記す冒険の書(2020年3月に日本に帰国)

野球を続ける理由~自分が1番嫌いなこと①~

こんにちは。淺沼です。

(書き出しが難しい...)

いきなりですが、日本、エルサルバドル、スペインで生活してきて文化や生活、人種などの違いなど日々感じることが多くあります。

いろいろあるんですが、今回は自分が一番嫌いなことを記事にしてみようと思います。

なぜ自分が海外で生活したり海外で野球をするのか。

そこに結び付く部分もあるので、少し長くなりますが最後まで読んでいただけると嬉しいです。(3つの記事に分けて書いています)

 

うまく書けるかわかりませんが、まとまるかわかりませんが、とりあえず書いてみます。

 

最初に結論からいうと、自分が一番許せないことは、

「自分の力でどうしようもできないことを嘲笑う」

ことが一番嫌いなこと、許せないことです。

 

性別人種生まれの環境貧富の格差外見性格年齢...とあげればきりがない。

自分の力でどうしようもなく、先天的なこと。そして先天的なことじゃなくても、その時にその人の力じゃどうしようもないこと。

それをいじったり馬鹿にしたりすることだけは絶対に許せない。

かなり大げさにいうと、そういうものと戦うために海外で生活したり野球に関わったりしている。

 

自分は17年間野球を続けているけど、海外で数年生活しているけど、野球がうまいわけでも、語学が堪能なわけでも、特別何か能力があるわけでもない。かなり盛って下の中くらい。これは本当に本当。

 

元々高校で野球は区切りをつける予定だったし、大学に行く予定もなく、地元のパン屋さんに勤めようと思ってた。

でも高校時代に公式戦1勝、それ以外の試合は負けて続け勝つことができなかった自分が大学で野球を続けようと思ったのも、「野球は私立校や強豪校出身でうまい人が続けられるもの」という雰囲気を壊したかったから。

弱小校や下手な人でも大学で野球を続けたいけど、うまい人しか大学で野球できないから諦めようって泣く泣く断念する人は山ほどいると思う。

そういう人たちに、一時期9人しか部員がいない高校で公式戦1勝しかしたことない奴でも「野球を続けてるよ!」「実績とか出身とかそんなの関係なく胸を張って野球続けてもいいんだよ!」

そう言えるように、そう見てもらえるようにって大学でも野球を続けることにした。

 

でも現実はやっぱり厳しくて、全然結果が出せなかった。

投げても打たれるし、周りには甲子園に出た人とか岩手にいれば名前を聞いたことのある選手がいっぱいいて、弱小校から来た自分がチームに迷惑をかけたくないっていうプレッシャーからイップスっていう精神的な病気になったりもした。

その中でも実力も実績もなかった自分が大学時代に一番苦しかったことは、球場で選手名がアナウンスされる時だった。

大学野球では高校野球とは違い、「ポジション、名前、背番号、出身校」がアナウンスされる。

自分の場合は「ピッチャー、淺沼くん、背番号18、●●高校」というアナウンスになる。

この出身校がアナウンスされた時に必ずと言っていいほど球場のどこかで笑い声が聞こえた。スタンドだったり相手ベンチだったり。そういう声はマウンドからよく聞こえる。「●●高校だってよ。」「ちょー弱いところじゃん!ハハハ!」

確かに自分の出身校は県内でも野球が弱い高校だったから、そんな高校出身の奴は大したことないだろうって思う人も多いと思う。

それを見返したいというか、出身校で人間決めるなっていう気持ちで投げるんだけど、ボコボコ打たれて降板。それがめちゃくちゃ悔しくて、そして何より情けなくて降板後ベンチや帰りのバスでよく泣いた。

こんな自分の面倒をみてくれた先輩の期待にも応えられずあっという間に大学4年生になった。

 

大学4年の最後の年は肩と腰を怪我して試合にも出られない年だった。

それでも試合に出られないって分かってても、いつも試合で投げる時のようにウォーミングアップをして準備していた。

そんな中、てきとうにアップして試合に出ていた強豪校出身の選手がいて、どうしても納得できなかったことを覚えている。

 

大学最後の試合の日、試合に出られないって分かってたけど相変わらず一人で完璧にアップをした。

試合は相手チームがどんどん得点し、あと一点でも取られたらコールド負けになってしまう展開。

しかもノーアウト満塁の大ピンチ。マウンドでは学年が一つ下の後輩が頑張って投げていた。

そんな時、チームの監督が審判にタイムを要求し、ピッチャー交代を宣告した。

「ピッチャー●●に代わりまして、淺沼くん、背番号18、●●高校」

球場にアナウンスが流れた。

ノーアウト満塁、一点でも取られれば試合終了。ヒットもフォアボールもデッドボールも許されない場面。

怪我で試合に出られなかった奴がこの場面で登板。最後の思い出作りだろう。自分のチームもそして相手チームも全員そう思ったと思う。

誰も口に出さないけど、そんなのめちゃくちゃ感じる。

でも自分はそんな気持ちは全くなかった。

「確かに最後だし怪我してるし大ピンチだけど、打ち取りたい」って本気で思った。

心は落ち着いていたし、それができる自信はあった。

しっかり準備してたし、高校時代いっぱいこんな場面があったから。

 

一人目のバッターをセカンドゴロでホームゲッツーでダブルプレー、そして次のバッターをサードゴロで打ち取りスリーアウト。

球場にいた99%の人がダメだろうって思ってたピンチを無失点で乗り切った。

 

その後の攻撃で何点か返し、もしかしたらこの試合まだまだ分からないって思った。

次のイニングも引き続き自分が投げることなった。

でもホームランを打たれて失点した。

その試合は負けてしまったけど、何となく心が穏やかだった。

誰もが諦めている状況で、一人沸々と今までの悔しさとか思いをぶつけて投げたあのイニング。大学まで野球やって良かったって思えた試合。

 

 

結局あんまり勝てることなく高校、大学野球が終わった。

後悔はないけどまだまだやらなきゃいけないことがあるって思ってた。

それは「うまい人しか胸を張って野球を続けられない」「下手な人でも野球を続けていく道がいっぱいある」って証明していくっていうこと。

 

だから野球を続けること、そして自分の経験を必要としているところはどこかって考えた時に、青年海外協力隊で海外で野球に携わるっていう道が生まれた。

野球しかしてこなかった自分。しかも実績がない自分。バイトしても要領がものすごい悪い自分。正直、大学を出てすぐに日本の社会で働ける自信もなかった。

青年海外協力隊」って言葉は聞いたことがあったし、開発途上国で自分の経験を活かして活動するって自分に合ってそうだったしカッコいいと思った。

協力隊の試験を受けるために英語の勉強も始めた。

そのために大学4年生になって1年生が受講する講義も受けた。

何度も青年海外協力隊の説明会に行った。

その説明会で毎回、隊員の活動の映像が音楽と一緒に流れてた。

知らない町で待っている君に会いに行く・・・

このフレーズがずっと頭に残ってた。

誰かの役に立てるなら参加してみたい。

これしかないって思って試験を受けた。

 

英語の授業とか青年海外協力隊の情報とか自分で調べて行動する。新しい出会いも増えてどんどん世界が広がっていく感じがして楽しかった。

 

そして青年海外協力隊の試験に応募してなんとか合格。

中米のエルサルバドルで野球の指導者として派遣されることになった。

 

野球を続ける理由~自分が1番嫌いなこと②~へ続く

 

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