のぶろぐ | スペインで野球ときどきベースボール

サッカーの国スペインのバレンシアで野球をしながらスペインの日常を記す冒険の書(2020年3月に日本に帰国)

【ちょっと真面目に】自己責任について思うこと。

-自己責任-

『事故及び事故に関する全てのトラブルは自己の責任とし、当社は一切責任を負いません。』

『期間中に発生した一切の事故や怪我、病気などの責任は負いません。』

日常的に街中や様々なイベントなどでもよく目にするフレーズだと思います。

自分はこの「自己責任」という言葉、あまり好きではありません。 

現在よく使わている意味とその無機質な響きがどうしても嫌で。

しかし近頃はこの言葉を意識せず生活することは難しくなってきてると思います。

自己責任という言葉が必ずと言っていいほど使われるのは、日本人が海外でトラブルに遭った時。2004年イラク邦人人質事件、2015年ISによる日本人人質殺人事件など。これらの事件をきっかけにメディアや一般人など多くの人が、加害者側ではなく被害者側へのバッシングとして使われるようになったと思います。

それからは国内の事件やトラブルに対しても、ネットニュースのコメント欄では「自己責任」という言葉をよく目にするようになりました。

今回は日本人が大好きなこの自己責任という言葉について思うことを書いていきます。

 

海外で日本人が被害に遭うこと以外でも、自己責任という言葉が使われる場面は皆さんの日常でもあふれていると思います。

貧困や病気も自己責任。結婚離婚も自己責任。

「子どもも望んで生んだんでしょ」という人たち。

生活保護受けなきゃやってけないくらい苦しい生活しても自己責任。そして生活保護を受けても叩かれる。リストラ、ワーキングプアも自己責任。過労死しても自己責任。痴漢にあうのもそういう服を着ていた人が悪い、自己責任。待機児童も自己責任。精神疾患も自己責任。自殺や孤独死しても自己責任。

お前が勝手にそうなったんだから俺たちに迷惑をかけるな。極端に言えば全部このように聞こえてしまいます。保身的、とても自己保身的。そして閉鎖的。

 一般的から外れた者を何が何でも許さない社会、許せない空気を感じます。

この「自己責任」という言葉をよく考えてみると、ある種の嫉妬心とよく似ているのではないかと自分は思います。

ここからは嫉妬心という言葉を踏まえて現在の自己責任について考えていきます。

大事になることは「自他との境界線」だと自分は思います。そこを無視してしまうとどうしても終わりが見えなくなる気がするので。

よくバッシングのように使わている自己責任は、幼児や児童の言う「ずるい」と近い関係になっていると感じます。

さらに掘り下げると大人がよく言う「苦しい(辛い)のはお前だけじゃない」という言葉ともよく似ているとも思います。

つまり現在の日本で使われる「自己責任」は

自己責任=ずるい(嫉妬心)=苦しいのはお前だけじゃない

かなり極端にいうとこのように関係付けできると思います。

なんであんなにいい暮らし、いい思い etc.をしているんだ。ずるい。それなのにいざというとき助けてほしい? 自己責任だ!俺たちだって苦しいんだから!

自分たちは我慢して苦しい思いをしている。だから正しい。相手が悪いから自分は批判していいんだ!

少なからずこのような気持ちもあるのではないでしょうか。

 

ドラマ『リーガルハイ』の『民意とは』のセリフが非常に的を得ていると思います。(お時間ある方は観てみてください。)


リーガルハイ【名言】「民意とは〇〇」

 

冒頭でもふれたように数年前、イスラム国が後藤健二さんと湯川遥菜さんの2人を人質にとり、日本政府に身代金を要求する事件が起こった。

残念ながら2人の命は助からなかった。

後藤健二さんは、ジャーナリストとして主に中東の紛争地域の取材を続け、現地の情報を世界中に発信していた。『ダイヤモンドより平和がほしい』などの本も出している。

拘束されたニュースが報道されてからは2人の命を心配する声も多くあったが、「あんな危ない場所に自分の意志で行ったんだから、自己責任だ」というような声もそれと同じくらい多くあった。たしかにそのような意見もわかる。でもなんで「あんな危ない場所」ということを自分たちが知っているのかといえば、実際にそこに行って危ない現実を伝えてくれる人がいるからではないでしょうか。

この件については少なからず自分と重なり、考えることもある。自分が青年海外協力隊として2年間滞在していた国のエルサルバドルをインターネットで検索してみると「ギャング」や「殺人」に関する写真や情報がどんどん出てくる。実際に自分が派遣されていた二年間の期間中、2015年、2016は「10万人あたりの殺人発生率」は世界ワーストになり世界で最も殺人が多い国だった。

しかし実際に現地で生活をしていると、エルサルバドルでは穏やかな日常を送っている人が多く、自分自身も危険な事件に遭うことはなかった。もちろんそれはJICAの安全対策のおかげもある。でも実際に現地に行ってそこの現実を実感し、発信する人がいなければ分からないことも多いと思う。だから自分はたとえ小さな影響力でもブログやSNSを通じて自分が生活していた現地の情報を発信している。

実際、現地に派遣される前はすごく怖かった。初めての海外だったし、言語もほとんど話せない。なおさらギャングや殺人のことが耳に入ってくる。最悪死ぬかもしれないって本気で思ってた。でもそれは自己責任だって思った。なぜなら自分が決めたことだから。

この自己責任は今まで書いてきた自己責任と決定的にちがうことがある。

それは「他人が決める」か「自分が決める」か。

自己責任という言葉は、その人自身が決めるか、その人の背景までしっかり知ったうえで初めて言える言葉だと思う。

「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むのは人の業にあらず、裁きは神の領域。そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった。」

後藤健二さんがTwitterでつぶやいた言葉。

 

少し話は変わって、冒頭で少し触れた生活保護もよく「税金の無駄だ。」と言われることがある。

よく自己責任の的になるこの制度。

厚生労働省が発表している『生活保護の被保護者調査』平成30年6月分概数で、『生活保護受給世帯の内訳』では、高齢者世帯、傷病者・障がい者世帯、母子世帯、その他などで約1628000世帯が生活保護を受給している。

生活保護は誰もが何か困ったときに受けられる大切な制度だ。でも最近は国や行政の財政が厳しいとされなかなか受けさせてもらえない現状もある。そして生活保護といえば不正受給者が多いというイメージ。しかしその不正受給者は全体の1.8%ほど。

実は98%は適正に受給されている。そして日本は生活保護の受給者がアメリカやドイツ、他のヨーロッパ諸国に比べて圧倒的に少ない。さらにGDP比率に対する受給額も圧倒的に少ない。

それなのに「生活保護を受けている人のほどんどが不正受給」という印象の操作。もちろん100%適正受給されるのが理想だけど、この不正受給の2%を無意味に膨らませて「生活保護は悪いこと」「生活保護を受ける人は悪」というような空気が苦しくてどうしても助けが必要な人をさらに苦しませていると思う。このような空気がさまざまな社会問題にも漂っている。

 

スペインワーホリに来る前、東京で仕事をしていた。

職場の方々にもとてもよくしてもらっていてやりがいを感じていた。毎週のように様々な場所に出張に行っていた。そのため東京駅を利用する機会も多かった。ある日、地方への出張が終わり東京駅に着き、地下鉄に乗り換えるため階段を下っていた。すると階段の下に一人の女性が倒れていた。急いでその人のもとに行って大丈夫かどうか声をかけた。幸いその人に怪我はなった。階段を踏み外して転んでしまったようで恥ずかしさからか少しパニックになって起き上がれずにいたようだった。落ち着いてもらうために話をしていたら近くにいた大学生たちも声をかけに来てくれて駅員を呼びに行ってくれた。念のためにと駅員がその人を救護室に連れて行き、自分と声をかけてくれた大学生たちは「大丈夫そうでよかったですね。」と話して解散した。

そんなに長い時間ではなかったけど、その間たくさんの人が自分たちの横を通って行った。でも声をかけてくれたのはその大学生たちだけ。たくさんの人が「なにしてんの?」「邪魔だなぁ」というような目をしながら横を通って行ったのがすごいショックだった。

これも転んで倒れた人の自己責任なんだろうか。

 

「日本人は優しい」「日本はおもてなし文化」、最近話題の「ワンチーム」本当だろうか。

都合のいい時だけだって思った。

優しく、おもてなしするのは先進国から来たお金持ちの人たちや立場の上の人たちだけではないでしょうか。途上国から出稼ぎなどで来た人、立場の低い人、困っている人にも同じ対応をできるのでしょうか。

最近恐ろしい勢いで感染が拡大しているコロナウイルスに対してもそうだ。「船に乗っていた人の自己責任」「そもそも日本の船じゃないから助ける理由もない」という声もあるそうだ。そんなことを言っている場合じゃないと思うんだけど...

今年はオリンピックが開催予定だ。本当に大丈夫だろうか。

 

でもこんなこと多分みんな分かっていると思う。

それでもみんな自分自身のことで精いっぱいだから他人を気にしている場合じゃない。これもとてもよく分かる。みんなギリギリのところで頑張っている。頑張りすぎている。

自分を大事にできなきゃ他人を大事になんてできない。

普段優しい人も切羽詰まると他人に厳しくなる。みんな頑張りすぎて切羽詰まっている。だから他人にも厳しくなる。もともと人間は優しいもの。多忙であることが優しさや余裕をなくしていく。

先日「日本の自殺者数が2万人を切った」というニュースを見ました。自殺者数が少なくなることは素晴らしいことだけど、それでも毎年2万人ほどの人が自殺している。これには様々な要因があると思いますが、苦しくても助けを求められない環境、苦しいという声すら届かずに絶望した結果自ら命を絶った人も多いのではと考えることもあります。

 

自分が自己責任について思うことは「自己責任」という言葉は「苦しいのはお前だけじゃない」という言葉にとてもよく似ていると思うと前半に書いた。どちらの言葉にも共通することは他人に言われて強要されるものではないということ。その人がその人自身で感じ、完結できる自由があるもので他人が「叩く」ものではない

その人の人生も何も分からないで、一個人の責任に言及するものではない。というのが自分の意見。

 

「自己責任」の乱用は思考放棄につながるとも思う。「自分は正しいことを言った。相手が間違っているからどんな批判をしてもいいんだ。」という思考と同じ。最近よく使われる「論破」とか「マウントを取る」「ブーメラン」とかも同じだと思う。

自己責任とバッシングする前に国や行政そして社会が、どうしても助けが必要な人に対して支えあえる体制を作っていかなきゃいけないのではないでしょうか。

個人ではどうしようもないことに自己責任ととがめられる社会も、反対に政府や行政、財界などの権力を持つ人たちは何が起きても誰も責任を負わずに済むような現在の状況も変わっていくべきだと思います。

「そんなもののために税金を払っているわけではない。勝手にそういう状況になってるだけだろ?俺たちに迷惑をかけるな!」という意見もあると思いますが、それは「積み立て保険」的な考えなのではないでしょうか。税金は社会保障などみんなが困っている人を支えるためのセーフティーネットにだって使われていいものだと自分は思います。助けが必要な人だって税金を払っているのだから。(自分は税金などに関して無知なので間違っているかもしれません。)

 

「自己責任」という言葉を使う度、生き辛い社会になっていく気がしています。

だから少しでも会話や対話ができる空気が広がってしんどい時に誰かに助けを求められる社会になっていけばいいなって思います。人間そんなに強いものじゃないと思うので。

 

以上長くなりましたが、自分が自己責任に対して思うことを書いてみました。

やっぱりうまくまとまりませんでした。毎回読みにくい文章で本当にごめんなさい。

最後まで読んでいただき本当にありがとうございました。

 

※この記事に対して様々なご意見があると思いますが、個人や団体を誹謗中傷するための記事ではありません。一個人の意見としてご覧いただければ幸いです。

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